2007-06-19

合理性に関する主張

アリス・W・フラハティの「書きたがる脳」は刺激的で痛々しい書物だ。
彼女の納得している合理性に関する記述。
「以前の私には合理性が欠けていた」ということをこう表現している。
いまのわたしには美的、科学的なインスピレーションと宗教的啓示、さらには精神病の状態には何が共通しているか、以前よりもよくわかる。発作が起こる前には、これらはすべてきちんと区切られて別々に存在していた。わたしはどうやってこの知識を得たのか?本書に記した研究によって---だが同時にわたしの身体が、心が、中脳がそれを知っていたから---わかったのであり、それは以前よりもわたしの皮質に大きな影響を与えている。もちろんこれは科学者の考え方には似つかわしくない。できるだけ以前のようなまじめな考え方をしようと努力しているが、もう自分を完璧に科学者とは感じられず、悲しみに満たされると同時にわくわくする。
インスピレーションにより、内部的でもあり、外部的でもある存在を体験するということが、人の呼吸と同期した営みとして合理的な美しさの獲得に資するというのが彼女の言いたいことのようだ。
すなわち、合理的ということは区別した体系的な知にあるのではなく、納得できる体験があってはじめて合理的な理解につながるということのようだ。
中沢新一の若いころの体験を髣髴とさせる生々しい筆致で、たしかに書きたいことは一気に訪れるのだろうということがよくわかる。

2007-06-07

教育目標

フランク・ウイルソン「手の500万年史」に子供の認識の発達をどうやって促進するかのヒントが書かれている。たいへん参考になる。以下部分的に引用する。(邦訳322ページ、330ページ)
カナダの教育家キーラン・イーガンは「教育を受けた心」のなかで、どんな教育改革戦略も、長い教育史の結果に取り組まざるを得ないと指摘する。この教育史の期間に、3つの教育目標が継承されてきた。
 若者を成人社会の現在の規範と慣例に適合させる必要があること。若者の思考を世界の現実と真実に確実に順応させる知識を教え込まなければならないこと。個々の生徒の個人的な潜在能力の発達を促進すべきであることの3つである。
 イーガンは3つの目標が等しく望ましいことに同意する。そして、教育組織に対する義務として見ると、あいにくと3つの目標はまた相互間に矛盾するという。教育組織は、現代の教育慣行を補強する「三大理念」に固有の矛盾を解決できないと主張している。
 かれはこの袋小路を包囲する方法として子供に対する教師のアプローチを修正し、認識の発達や機能の連続的な順序と階層の両方に順応することを提案する。
 イーガンはとりわけ人間の進化と文化史が、子供の認識の発達を促進する枠組みを提供すると考える。そして、教師は人間の文化が「理解の種類」という形式で蓄積したものを若者たちのために活用できるという。
 イーガンの考えでは、知的発達には「ある人間が成長する社会で使用できる知的道具の役割の理解が必要になる」それぞれの社会で発見される道具は、順を追って高くなる意味で、身体的理解、神話的理解、非現実的理解、哲学的理解、反語的理解という順序になる。これらの異なる種類の理解には、暗に人間の思考能力の進歩が意味されている。イーガンはマーリン・ドナルドの挿話的文化というモデルを、ミメシス文化、神話的文化、理論的文化に割り振りする。だからかれは、われわれが理解のより高い形式に移行するにつれ、より低い形式を捨て去ることはないと提唱する。